『聖なる鹿殺し』を観て思ったこと

 

概要

ギリシャ人監督ヨルゴス・ランティモスによる2017年の『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(英題:"The Killing of a Sacred Deer",2017年)。

籠の中の乙女』や『ロブスター』において、不条理で理不尽な出来事の連鎖を現実世界とギリギリの接続点を保ちながら描く方法で観客を驚かせたランティモスは、本作で2017年のパルムドールノミネート、そして脚本賞の受賞を果たした。

籠の中の乙女』(英題:"Dogtooth",2009年)である視点部門を受賞し、『ロブスター』(英題:”The Lobster",2015年)でもパルムドールノミネートされていたランティモスは、1973年生まれの45歳。今後カンヌの常連になることは必定だろう。

2019年2月には、『女王陛下のお気に入り』(原題"The Favourite",2018年)の日本公開が決まっており、彼の作品は『ロブスター』から三年連続の日本公開なのである。理不尽で少々過激な演出に目を塞ぎ、首を振りたくもなるが、その”不条理な笑い”とでも言える滑稽さに口元だけはニヤリとしてしまうようなランティモスの作風は、興味を引いて止まない。これから彼の作品が多く発表されることを願う。

 

ネタバレあらすじ

 

心臓外科医の主人公スティーブン(コリン・ファレル)は、眼科医の妻アナ(ニコール・キッドマン)と子供たちと共に幸せに暮らしていた。スティーブンは家族に内緒で外科医志望のマーティン(バリー・コーガン)という少年と密会を重ねていたが、マーティンを自宅に招き、家族に紹介すると、マーティンは皆に気に入られ、より深い関係となって行く。しかしある時、スティーブンの息子ボブの足が麻痺し、入院することとなる。するとマーティンがスティーブンの元を訪ね、彼に「家族を自分の手で一人殺さなければ、自分以外の家族全員が苦しんで死ぬことになる」と告げる。実はマーティンは、スティーブンの手術が失敗して亡くなった患者の息子だったのである。スティーブンは悩んだ挙句、家族全員を椅子に縛り付け、ライフルを持ち、家族に銃口を向けて自分に目隠しをした状態でグルグルと周り、引き金を引いていく。何発か外してしまうスティーブンだったが、最終的に息子のボブに当たってしまう。

 

観て思ったこと(批評ではない)


本作のファーストカットは、人間の体内から始まる。痛ましく切開された体内に、その脈打ち躍動する動きから心臓と分かる臓器が露出している。カメラのズームアウトと共に、淡々とした心臓の外科手術の様子が長々と映し出されるのだ。主人公のスティーブンは心臓外科医である。


何の説明もなく、この医療行為を見せつけられたとき、それは"冷え切ったグロテスクな内側"でしかない。このショットを見ながら思い出したのは、フランソワ・オゾンの『二重螺旋の恋人』である。この映画も、医者を訪れたマリーヌ・ヴァクト演じる主人公の女性の”体内”のショットから始まる。(この映画も悪趣味で過剰な演出が見られる部分があるが、冒頭の10分程度でもう満足できるほどの映像表現が繰り出される。個人的な好みだが、はじめの4カット程で最高の映画だと確信していた。)


『聖なる鹿殺し』を最後まで観てから振り返ると、この心臓の描写のグロテスクさが際立つだろう。結局のところ、本作における登場人物は、どうしようもない身勝手さに満ちた者ばかりで、あまりに人間らしく、それを直球で提示されるがゆえに直視したくなくなる。安直な表象論もどきで語るつもりはないが、“心臓”という象徴的な物体を画面いっぱいに映し出されれば、私はこの視覚的な醜悪さと人物たちの内面的な醜悪さに思いを巡らさずにはいられなかった。

 

主人公の妻アナは、自分が殺される一人に選ばれることがないよう、ベッドに寝転ぶスティーブンに近寄り、「選ぶならもちろん子供の中から。私たちならまだ子供を作れるわ。」と誘惑する。娘のキムは、家族のために身を捧げたい、それが自分の望みであると父に対してうそぶくが、無論それは自分の“聖性”を誇示(※1)し、保身するための言葉である。彼女に至っては弟のボブを殺めそうな勢いだった。 ボブも、控えめながら「眼科医になりたいって言ってたけど、本当はお父さんみたいに心臓外科医になりたいんだ。」と父に媚びを売る。(※2)

 

悲しい風景である。それぞれが自分の命を最優先するがゆえに家族を蹴落とそうと競争する。しかし、この登場人物たちをただただ責めようとは思わない。誰しも利己的な面を有している。この人物たちの醜悪な情動は、生々しく、そして大胆に人の利己主義を暴露する。

 

現実にはあり得ない設定や、人物たちの極端だったり不可解な行動は、ランティモスの映画に特徴的で、醍醐味だとも言える。彼の作風は人の感情の機微等を丁寧に描くものではないと思うが、その大胆なやり方に、私はいつも面食らう。彼は直接的に抉るのだ。

 

映画の手法として良いか悪いかは別として、ランティモスの映画は演繹的だと思う。ある大きなテーマ、描きたいもの、物語があって、それに沿って登場人物が動いていくというような感じだ。逆のものとしては、今思いついただけだが小津安二郎の作品などでは、人物たちは食事をし、人としゃべり、生活をして、生きている。人々の営みの中で、自然と物語が出来上がり、その後にテーマのようなものが浮かび上がってくるような感覚がある。(作品のテーマを決め付けたりするのは個人的に好きではないが。というかテーマって何なんだ。)

 

とにかく、この映画の人物には、現実味が欠けている。監督が据えた結末に向けて登場人物が動かされているような印象を受けるのだ。人物たちは、この理不尽な状況の中、その原因となったマーティンに矛先を向けることはあまりない。普通であれば、マーティンを責めるのではないか…?しかしこの映画では、運命や神のような超越的な存在に逆らうことは出来ないから、与えられた状況の中であがくしかないと分かっているようなのだ。

 

超越的。ランティモスの不条理な世界の中では、超自然的な力が現実的な描写と隣り合っている。この作品では、マーティンにそういった力が与えられているだろう。マーティンがスティーブンに向けた理不尽な要求は次のようなものだった。

 

「スティーブンの家族は報いを受けるだろう。
 まず第一段階で、手足が麻痺する。
 第二段階、食事を拒否するようになる。
 三、目から血が流れ出る。
 四、死。
 これを回避したければ、スティーブン自らの手で家族を一人殺せ。」

 

家族全員を見殺しにするか、自分の手を汚すか。はじめはマーティンの言うことを信じなかったスティーブンだったが、息子のボブ、そして娘のキムにこれらの症状が出るようになると、どうにかしてこれを回避しなければならないと頭を抱えることとなる。マーティンはこういったことを可能にする魔術師なのか?それとも悪魔か?神なのだろうか。

 

ギリシャ悲劇 

 

ギリシャ悲劇作家エウリピデスに“アウリスのイピゲネイア”がある。(キムはこの作品の作文を書き、教師からの評価を得ていた。)これは、次のような話だ。

 

ギリシャ軍の総大将アガメムノンは、トロイアに攻め入るため出航したが、風が止んだため進むことができない。それを予言者に占わせると、「娘のイピゲネイアを生贄に捧げよ」との神託があったことを告げられる。実は、アガメムノンはこの前に女神アルテミスの「聖なる鹿」を狩り、アルテミスの恨みを買っていたのだ。アガメムノンは、国にいるイピゲネイアと妻のクリュタイムネストラに手紙を送る。それは、英雄アキレスとイピゲネイアの婚礼が決まったので、こちらに来いという嘘の内容だった。アガメムノンの元に到着し、本当の理由を告げられるイピゲネイア。彼女は自分一人の命で国が救われるならばと、己の身を差し出す。クリュタイムネストラは悲嘆に暮れる。しかし、最後イピゲネイアは殺される前に、女神の鹿と入れ替わったという。イピゲネイアは助かり、女神の神官に据えられた。

 

『聖なる鹿殺し』というタイトルだが、本作に鹿は登場しない。このギリシャ悲劇をベースに『聖なる鹿殺し』を完全に読み解けるとは思わないが、結びつけられる点が多々あるはずだし、少なくともタイトルの理解には役立つはずだ。

 

話は逸れるが、ヘルツォークが監督し、リンチがプロデュースした『狂気の行方』という作品を先日観た。この作品でも、ギリシャ悲劇が登場する。それはオレステスという男による母親殺しの話(オレステス・コンプレックスの名前の由来となる)で、この映画を読み解くための一つの重要なインターテクストとなっている。そのオレステスという神話上の人物が、なんとアガメムノンの息子、つまりイピゲネイアの弟なのである。上記の「アウリスのイピゲネイア」では、夫に娘を殺された(と思っている)恨みから、妻のクリュタイムネストラは夫を殺す。そして、息子のオレステスは母が父を殺した理由を知らなかったため、ただ母を恨み、復讐のため母を殺したのであった。(ホメロスの「イリアス」)

 

『聖なる鹿殺し』にオレステスの話は関係ないが、最近見た映画に思いも寄らないところで関連があって驚いた。しかしやはり、洋画を観る上で神話や宗教(特にキリスト教)の話を詳しく知っておく必要があると感じさせられた。

 

話を戻そう。マーティンがそもそも「家族全員を見殺しにするか、自らの手で家族を一人殺すか」などといった不可解な要求をしてきたのは、スティーブンがマーティンの父の心臓の手術で失敗したからだった。さらに後に分かったのは、スティーブンが酒をのんだ状態でオペに向かっていたということだ。つまり、マーティンのスティーブンへの要求は、自分の父を死なせた報いとして、同じような犠牲を払えということだったのだ。

 

マーティンからすれば、何ら“理不尽な”要求ではない。むしろ、正義でさえある。しかし、マーティンはスティーブン本人を手に掛けようとはしない。父を殺された復讐ならば、スティーブン本人を狙うのではないだろうか。だがマーティンが望むのは、あくまで自分と同等の苦しみ、自分以外の家族を失う苦しみを味わわせることだった。

 

息子による”父親越え”

マーティンのスティーブンへの接し方は独特である。スティーブンがいかに素晴らしい人かと語り、親し気に自宅に招き、母とスティーブンの仲を取り持とうとする。実際、スティーブンは外科医で、美しい妻と二人の子と豪邸に住み、対外的に評価されている人物として描かれている。また、彼の濃い体毛は成熟した大人の男性の印となっており、マーティンが彼に脇毛を見せるように頼むのは、成長途中にある少年から見たスティーブンの強い男性性が示されていると思う。(この辺の描写は唐突で少々滑稽なかんじがして、面白い。)

 

マーティンはスティーブンを自分の父のように尊敬し、父になってほしいと思っているかのようだ。一方で、スティーブンに対して理不尽な要求を突き立て、悩ませることから、強い父性への憧憬を抱きながら、その崩壊を望む息子のアンビバレントな感情がこのマーティンという少年に表れているのではないかと思う。

 

一方、マーティンの実の父の存在感はかなり薄い。一つ印象に残るエピソードとして、「パスタの食べ方」があった。マーティンはスティーブンの妻アナが自宅に来た時に、パスタを食べている。マーティンは何だか不快なパスタの食べ方をしながら、「父のパスタの食べ方に似ていると言われたことがある。だが後になって、パスタの食べ方なんてみんな一緒だってことに気付いた」という話をする。

 

この独特なパスタの食べ方をする少年を見ながら、初めて彼の父の姿が具体的に浮かび上がってきたような気がした。細部を知ることで、その姿が少しだけ浮き彫りになったような気がしたのだ。しかし、マーティンはそれをすぐに打ち消す。「誰だって同じだ」と。マーティンの父はほんの一瞬の「在」から「不在」へと姿を引っ込めてしまった。それほど脆い存在だった。息子は、強い父親像を求め、一方でそれを乗り越えようとするものではないだろうか。だからこそ、少年は強い"父親"としてのスティーブンに執着した。

 

マーティンという少年

 

本作のラストカットは、レストランに死んだボブ以外のスティーブンの家族が座り、その奥に座るマーティンの姿のショットで幕を閉じる。考えれば考える程、マーティンという少年の存在は興味深い。彼にはいくつかの段階があった。

 

1 幸せな家庭に潜り込み、不和を引き起こす予感をさせる侵入者
2 スティーブンに露骨な憧れを抱いたり、母との仲を取り持とうとする息子
3 超現実的な事象を自在に操っているかような神のような存在

 

1は、パゾリーニの『テオレマ』や、ハネケの『ファニーゲーム』のような感じを思い出させる。物語の原動力となる、不気味で蠱惑的な存在だ。2は、まだ成長過程にある不安定さを持っている。そして3は、ギリシャ悲劇の女神のように自由自在で、我々を俯瞰する越境者のようである。(ボブがエスカレーターを降りたときに足が麻痺し、倒れこむ場面の俯瞰のカメラワークは、まさに神の視点を感じさせるもので、映像表現の面白さも充分だった。)これらが複雑に混じり合った複雑な人物像は、強烈な印象を残すものであった。

 

これで一旦終わりにしようと思うが、ニコール・キッドマン演じる妻アナが、何故手足が麻痺しなかったのか、そして何故地下室に閉じ込めたマーティンをあっさりと逃がしたのか、といったことも気になっている。

 

メモ

 

※1 「アウリスのイピゲネイア」で、イピゲネイアは自分の国のために自ら身を捧げると告げるが、主人公の娘キムは「家族のために身を捧げます」と、実は保身のために言っているのがとても可笑しい。

※2 個人的には、主人公が子供たちのどちらを犠牲にするか悩み、学校へ行きどちらがより優秀か教師に訊く場面に顔をしかめてしまった。

・「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典の言葉は、「やられたら同じようにやり返す」というふうに理解されがちだが、もともとは過度な復讐を禁ずるための訓戒だったようだ。マーティンの行動はどうだろうか。

・復讐は負のスパイラルを招くだけであって、正義の行使としての復讐は不可能に近いことなのでは。「アウリスのイピゲネイア」からオレステスの話までを振り返ると、父が娘を生贄にし、妻が夫を殺し、息子が母に復讐する。復讐の連鎖は続くのである。

 

・スティーブンを追いかけるトラッキングショットが印象的。

 

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